大阪地方裁判所 昭和61年(ワ)9513号 判決 1995年3月07日
原告
田上綱彦
外二名
右三名訴訟代理人弁護士
鎌倉利行
同
檜垣誠次
同
畑良武
同
山本次郎
同
持田明広
同
密克行
被告
学校法人大阪工大摂南大学
(旧学校法人大阪工業大学)
右代表者理事
藤田進
被告
藤田進
同
青井忠正
同
福田準
右四名訴訟代理人弁護士
中藤幸太郎
同
熊谷尚之
同
高島照夫
主文
一 本件訴えをいずれも却下する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、原告らに対し、各自、別紙のとおりの謝罪広告を、見出し、記名及び宛名は一四ポイント活字をもって、その他の部分は八ポイント活字をもって、株式会社朝日新聞社発行の朝日新聞、株式会社毎日新聞社発行の毎日新聞、株式会社読売新聞社発行の読売新聞、株式会社日本経済新聞社発行の日本経済新聞の各朝刊全国版社会面及び被告学校法人大阪工大摂南大学発行の学園新報並びに大阪工業大学学園校友会発行の工大学園校友タイムスに、それぞれ掲載せよ。
2 被告らは各自、被告学校法人大阪工大摂南大学が昭和五八年一〇月三〇日付で発行した『学園史(創設史実編)』及び昭和六一年五月一六日付で発行した『図説学園創設正史』を回収し廃棄せよ。
3 被告らは各自、被告学校法人大阪工大摂南大学大宮校地(大阪市旭区大宮所在)のうち別紙図面のA点に設置されている田上憲一句碑について、同句碑の碑文中、被告らが削除した「学園創設者」の文字を右句碑に復刻復旧した上、同句碑を同図面のB点に移転復元し、かつ、前記校地のうち同図面のC点に設置されている田上憲一胸像について、被告らが除去した「学園創設者」と記載されたプレートを設置復旧して、同図面のD点に右胸像を移転復元せよ。
4 被告らは各自、被告学校法人大阪工大摂南大学大宮校地(大阪市旭区大宮所在)のうち別紙図面のE点に設置されている学園創立六〇周年記念顕彰碑を撤去せよ。
5 訴訟費用は被告らの負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 本案前の答弁
主文同旨
2 本案の答弁
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
被告学校法人大阪工大摂南大学(昭和六二年の改称前は、学校法人大阪工業大学。以下、被告学校法人を「被告法人」といい、学校としての大阪工業大学を「本件大学」という。)は、教育基本法、学校教育法その他の法令に従い、学校教育を行うことを目的として設立された学校法人である。
被告藤田進(以下「被告藤田」という。)は昭和五七年以来被告法人の理事(理事長)である者、被告青井忠正(以下「被告青井」という。)は、昭和五七年から昭和五九年にかけて、被告法人の理事(常務理事)であり、昭和五七年九月一七日被告法人理事会において設置された学園史検討委員会の委員長として、数次にわたる中間答申を作成し、被告法人理事会に提出し承認を受けた者、被告福田準(以下「被告福田」という。)は、昭和五七年から昭和五九年にかけて、被告法人の理事兼事務局長であり、昭和五八年一〇月三〇日に被告法人が発行した「学園史(創設史実編)」(以下単に「本件学園史」という。)の編集委員会委員長としてその編集発行に当たった者である。
原告田上綱彦(以下「原告綱彦」という。)、同田上貢平(以下「原告貢平」という。)及び同田上順彦(以下「原告順彦」という。)は、いずれも亡田上憲一(昭和四四年一月一七日死亡。以下「亡憲一」という。)の孫(亡憲一の子の長男、三男及び四男)である。
2 本件に至る経緯
(一) 被告法人の前身である関西工業専修学校は、工業都市大阪の地に特殊的工業専門教育期間を設置して、勤労学徒に再教育の場を提供し、時世に貢献することを目的とし、当時大阪府技師であった亡憲一を中心とする大阪府市在勤の技術者達が、本庄京三郎(以下「本庄」という。)の出資約束に期待して、これを校主として優遇し、さらに工学博士片岡安(以下「片岡」という。)を校長とし、大阪府市その他の会社工場における専門技術家達の援助を得て、大正一一年九月七日、創設したものである。
しかし、創設後半年にして、校主本庄の出資の不履行と学園経営からの事実上の離脱、校舎の類焼、財政の累積赤字、募金の不首尾等のさまざまな辛苦に遭遇し、亡憲一は、学園主事として私財を傾けてまで学園を支え、大正一五年の財団法人設立に当たっては、片岡とともに設立者かつ四人の設立理事の一人となり、さらに他の設立理事が学園を去っていく中で、ただ一人専従者として以後の学園経営に献身し、文字どおり学園の礎を築いた。このような実績に基づき、片岡が理事長であった昭和七年の学園創設一〇周年式典のころから昭和一五年の学園創設二〇周年式典のころまでに、学園内外において、亡憲一を生みの親とも育ての親ともみなし、同人を学園創設者として遇しようとする姿勢が衆目の一致するところとなり、爾後その評価が定着するに至った。すなわち、被告法人の寄付行為を初めとする幾多の公式文書においても、亡憲一が「学園創設者」と規定されるようになり、右の評価は昭和五七年ころまで学園史の中枢をつくってきた。
亡憲一は、単に学園における形式的役職名からすると「主事」、「理事」に過ぎなかったが、学園創設史を物語るいくつかの資料において「学園創設者」であると認められ、学園発足当時を実際に見聞していた多数の卒業生、学園関係者から「学園創設者は田上先生以外には考えられない」という評価を受け、右事実は以後の学園史においても六〇余年にわたり語り継がれ、幾多の歴史的文献や被告法人の学園史である「大阪工業大学学園五〇年史」(以下単に「五〇年史」という。)、「学校法人大阪工業大学六〇年史」(以下単に「六〇年史」という。)等に掲載されるに至った。
これに対し、被告らが創設者の一員であると主張する前記の本庄及び片岡は、形式的に本庄には「校主」、「設立者」、片岡には「校長」、「理事長」という役職名が付与されていたに過ぎず、学園の歴史を通じて「学園創設者」という社会的評価を広く学園内外から獲得していたとする証拠資料はない。
確かに亡憲一は「創設者」(実質的設立者)でありながら、被告法人の「設立者」(設立認可の申請者)とはならなかった。しかし、その理由は、被告法人の設立当時において、私財の存在を前提としていた私立学校令の「設立者」の要件からすると、亡憲一よりも本庄の方が被告法人の「設立者」とするに適した人物であって、学校設立の認可を受けやすい立場にあったから、また、右当時、亡憲一は官吏(大阪府技師)であったため、官吏服務紀律上の服務専念義務から、被告法人の「設立者」として名を出すことがはばかられたからであった。
(二) ところが、昭和五七年七月に至り、被告藤田は、被告法人の機関誌である「大阪工業大学学報」(当時の名称。現「学園新報」)に「学園史を見直す」との見出しの下、「学園創設以来の歴史を見直し、史実に照らした正しい学園史をつくり」たい旨を述べ、同年九月の理事会においても、同様の所信を表明した。そして、同人の発意によって、被告法人は、被告青井を委員長とする学園史検討委員会を設置した。
しかし、右委員会は、委員長、副委員長、委員、幹事の全員が被告藤田の提案どおりに任命され、学園創設当時の事情を知る者はほとんど含まれず、中立公正な第三者機関といえるものではなかった。しかも、昭和五七年一〇月一五日から合計七回開催されただけで、昭和五八年三月二四日には第一次中間答申が出された。また、委員会の検討資料については、亡憲一の著作はもとより、年史類等の原資料はほとんど排除され、著しく不公正にして偏頗な資料に基づき検討がなされた。その後、右委員会は第二次、第三次の中間答申を理事会に対してなし、その承認を経た。
3 被告らの不法行為
(一) 本件学園史関係
被告法人は、昭和五八年一〇月三〇日、被告藤田の命により、右中間答申の内容を無批判に編集した本件学園史を約三〇〇〇部発行し、奥付に「部内用」と表示してあるにもかかわらず、文部省、大阪府、関係私学その他の部外者にまで広く配布した。
本件学園史の本旨は、亡憲一を学園創設者とみなした従来の社会的評価を覆し、単なる協力者の一人に貶めたものであった。
さらに、被告藤田は、同月二二日ころ、被告青井及び被告福田とともに、本件大学職員全員に対し、本件学園史を配布し、ほぼ同じころ、大阪工業大学学園校友会(以下「校友会」という。)役員、同支部役員らに対しても、本件学園史を配布した。
同月二六日、本件大学会議室において、被告福田の招集により開かれた同大学事務系役職者(部課長、係長、主任ら)に対する本件学園史の説明会の席上、被告藤田は、本件学園史の宣伝を行った。
同月二七日、本件大学会議室において、当事の学長佐藤次彦の招集により開かれた本件大学教員に対する本件学園史の説明会の席上、被告藤田は、本件学園史の宣伝を行った。
同月二九日、本件大学会議室において、被告藤田の要望によって開かれた校友会六〇周年募金委員会の席上、被告藤田、被告青井らは、本件学園史を配布し、約二時間にわたり、本件学園史の宣伝を行った。
(二) 本件句碑
被告法人は、昭和五九年三月一八日、被告法人大宮校地(大阪市旭区大宮所在)のうち東内庭(別紙図面のB点)に昭和四〇年一〇月以来設置されていた田上憲一句碑(以下単に「本件句碑」という。)を、設置した校友会及び亡憲一の遺族に何の断りもなく、別紙図面のA点の位置に移動し、かつ、その裏面に刻まれていた「学園創設者」の文字を削除した。
(三) 本件胸像
被告法人は、昭和五九年三月一八日、被告法人大宮校地の正門脇(別紙図面のD点)に設置されていた田上憲一胸像(以下単に「本件胸像」という。)を、別紙図面のC点の位置に移動して、本庄、片岡及び大井清一(本件大学元校長)の胸像と並べた上、本件胸像に付けられていた「学園創設者」のプレートを取り外した。
(四) 本件顕彰碑
被告法人は、昭和五九年三月一八日、被告法人大宮校地東内庭(別紙図面のE点)に、学園創立六〇周年記念顕彰碑(以下単に「本件顕彰碑」という。)を建立して、その碑面に、前記中間答申により改ざんされた学園史を刻み込んだ。
(五) 本件図説
被告法人は、被告藤田の命により、「図説学園創設正史」と称するカラー写真入りの書物(以下単に「本件図説」という。)を発行した。
(六) 被告藤田、同青井及び同福田は、亡憲一に対する一連の名誉毀損行為を積極的に推進してきた中心人物であり、被告法人とともに右各行為を、相互に相依り相助け学園機構を利用して、相互密接不可分の関係において共同実行した。
4(一) 被告らは、右3の各行為により、亡憲一が世人から数十年にわたり広く受けていた「学園創設者」としての評価を、虚偽欺罔を交えた巧妙な方法で、執拗に、かつ、社会的に毀損した。被告らは、右の亡憲一に対する名誉毀損により、原告らの亡憲一に対する敬愛追慕の情等の人格的法益をも著しく毀損した。
(二) 原告綱彦の侵害された名誉は、死者に対する敬愛追慕の情はもとより、そのような通常の家族が抱く感情を超えたところの、原告綱彦自身の名誉それ自体でもある。原告綱彦は、祖父である亡憲一が命運を賭し私財を傾けてまで育て、「学園創設者」であるとの社会的評価も既に確立していた被告法人に勤務し、理事に就任することで、一般の親族の情を超えた亡憲一に対する尊敬と誇りを抱いていた。また、原告綱彦は、被告法人や学校関係者から創設者の孫としての扱いを受けてきたものであり、そのような亡憲一をとりまく周辺の諸事情により、亡憲一の名誉は原告綱彦の名誉と深く結びつき、亡憲一の名誉が原告綱彦の名誉そのものに同化していた。被告らは、前記3の各行為により、原告ら自身の社会的評価を低下させ、亡憲一直系の孫に当たる原告ら自身の名誉を侵害した。
5 よって、原告らは、被告らに対し、不法行為(民法七二三条)に基づき、原告らの名誉回復の措置として、別紙のとおりの謝罪広告、本件学園史及び本件図説の回収及び廃棄、本件句碑及び本件胸像の復旧並びに本件顕彰碑の撤去を求める。
二 被告らの主張
1 本案前の主張
(一) 法律上の争訟
原告らの本件訴えは、原告主張の被告らの諸行為が亡憲一の「学園創設者」であるとの社会的評価を低下させたとするものであるから、誰が被告法人の「学園創設者」であるかの認定を必須不可欠のものとしている。しかし、公権力が「学園創設者」を認定することは、そもそも裁判所の能力外の問題と言わざるを得ない。
すなわち、何人が「学園創設者」かという問題を解決するためには、まず当該大学の創設期における多数の文献資料を収集しこれを精査検討することにより、当時の客観的事実関係を究明する必要があるところ、当事者主義訴訟構造を取り、形式的真実主義に立脚する民事訴訟が右の事実関係を確定することの妥当性に疑問がある。
仮に右妥当性が肯定されたとしても、本件訴えを解決するためには、被告法人の学園創設期における功労者として顕彰されるべき者は誰か、誰が被告法人の「学園創設者」の肩書を付与されるべきなのか、という点を確定する必要がある。しかし、「学園創設者」という概念は、概括的に「学園創設期における功労者」のことであるということができるとしても、その具体的意味は不明確であり、法令上の概念でないばかりか、一般社会通念上の定義さえも確立されておらず、それを一義的に確定することは不可能である。
したがって、本件訴えは、裁判所法三条一項にいう法律上の争訟、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令の適用によって終局的に解決できるものに当たらず、裁判所の審判の対象とはなり得ないから、却下されるべきである。
(二) 大学の自治
仮に「学園創設者」の定義が可能であるとしても、「学園創設者」が誰であるかの認定を公権力が行うことは許されない。私立大学の思想的源流としてその理念的根幹たる地位を占め、過去・現在はもとより、将来の教育方針、学風等の基礎となり、ひいては当該大学の教育課程、教科科目の選定並びにこれに伴う教員人事、施設整備の態様等にまで影響を与えるところの、建学の精神及び教育理念の担い手である「学園創設者」が誰であるかを公権力が確定することは、まさに当該私立大学の自主的自律的管理運営権を害し、憲法の保障する結社の自由、学問の自由及び大学の自治の精神に違背するものである。
原告らの本件訴えは、亡憲一が「学園創設者」であるとの認定を不可欠の前提とするものであり、被告法人の自主的自律的決定権能の範囲内の内部的な問題として、司法審査の対象とはなり得ないから、却下されるべきである。
(三) 訴えの利益
原告らは、被告らの諸行為によって、右行為当時既に死者であった亡憲一の社会的名誉が低下させられたと主張するが、たとえ死者に対する社会的評価が存在し、それが低下せしめられたとしても、死亡により財産的にも人格的にもおよそ権利帰属主体たり得なくなった死者には、そもそも「損害」という概念を入れる余地はないし、不法行為の効果たる損害賠償請求の帰属主体ともなり得ない。したがって、死者には民事上保護されるべき名誉は存在しない。
仮に死者に対する不法行為の成立の可能性を認めるとしても、請求権者、請求期間、救済内容等につき全く実定法上の根拠を欠く現行法下においては、請求権の行使は許容されない。したがって、亡憲一に対する「学園創設者」との社会的評価の存否・真偽の如何にかかわりなく、右請求は訴えの利益を欠くから、却下されるべきでみる。
2 請求原因に対する認否
(一) 請求原因1のうち、被告福田が本件学園史の編集委員会委員長であったことは否認する。同人は、同編集委員会の委員の一人であったにすぎない。その余の事実は認める。
(二) 請求原因2(一)のうち、関西工業専修学校が被告法人の前身であること、同校が大阪府市その他会社工場における専門技術家等の協力を得て、大正一一年九月七日に創設されたこと、本庄が同校の校主であり、出資を行ったこと、片岡が同校の校長であったこと、同校の校舎が類焼した事実があること、同校の創設当初亡憲一は同校主事であったこと、大正一五年四月の財団法人設立の際亡憲一は設立申請者の一人であったこと、亡憲一が財団法人設立当初の理事の一人であったことは認めるが、その余の事実は否認する。
請求原因2(二)のうち、「大阪工業大学学報」(第三四七号)に原告主張のとおりの記載があること、昭和五七年九月一七日開催の被告法人理事会において、被告青井を委員長とする学園史検討委員会が設置されたこと、原告主張のとおり同委員会が開催され、中間答申が出されたこと、同委員会において亡憲一の著作、「五十年史」及び「六十年史」に基づく調査検討は行わなかったことは認めるが、その余の事実は否認する。
学園史検討委員会は、被告法人理事会において、被告藤田が設置を提案し、設置の趣旨並びに委員構成ともに妥当であると各理事に認められ、(当時被告法人理事であった)原告綱彦を含む理事会全員一致でその設置が議決されたものである。
(三) 請求原因3のうち、学園史検討委員会が第二次、第三次の中間答申を理事会に対してなし、その承認を経て、昭和五八年一〇月三〇日、被告法人が本件学園史を約三〇〇〇部発行し、文部省、大阪府、関係私学その他に配布したこと、被告法人が被告法人事務系職員及び本件大学教員に対する学園史説明会を行ったこと、本件大学学園校友会の学園創立六〇周年記念募金委員会が行われ、その席上、本件学園史が配布されたこと、被告法人が本件句碑を移動し、その裏面の「学園創設者」の文字を削除したこと、本件胸像を移動し、プレートを除去したこと、本件顕彰碑を建立し、その碑面に「本学園は 大正十一年九月七日 設立者校主本庄京三郎が 時の大阪府知事池松時和より設置認可を受け 校長工学博士片岡安をはじめ大阪府建築課長池田實を中心に 大阪府土木課長島重治大阪府営繕課長中村琢治郎 大阪市都市計画部長直木倫太郎 大阪市水道部長澤井準一 大阪市鉄道部技師長清水煕 大阪府土木主事奥村泰助 大阪府技師田上憲一 日本電力土木部長境田賢吉 大正信託常務取締役小野捨次郎薬種商大橋道雄 関西石材監査役岡崎忠三郎 等の協力を得て 関西工業専修学校を創設したのがそもそもの始まりである」、「初代設立者校主本庄京三郎、初代理事長片岡安、二代理事長坂本助太郎、三代・七代理事長田上憲一、四代理事長木下東作、五代理事長佐藤一男、六代理事長水川清一、八代理事長藤田進」と刻したこと、被告法人が本件図説を発行したことは認めるが、その余の事実は否認する。
(四) 請求原因4の事実は否認する。
3 抗弁
(一) 摘示事実の真実性又は真実と信じるについての相当性
自主性が尊重され高度の公共性を有する私立学校において、その「学園創設者」が誰かという問題は、建学の精神等の根本理念と密接な関係があり、その存立の基盤に関わる問題であるから、公共性を有する。また、このような根本精神の担い手をはじめとする学園史が史実に反するものであったとすれば、これは当該私立大学にとって放置すべからざるゆゆしき事態であり、これを是正することは緊要の業務である。
被告法人は、その設置した学園史検討委員会において、各地で事情聴取や資料収集をするなど精力的に活動し、その結果得られた厖大な客観的資料を精査検討した上で、これらに立脚して、被告法人の学園創設期における功労者が亡憲一ひとりではなく、本庄、片岡、池田實(当時の大阪府建築課長)をはじめとする一〇数人の者であり、それ故、亡憲一ひとりに「学園創設者」の肩書を付与することが適当でない、との結論に達した。
亡憲一は、学園創設の中心的関係者が種々の事情から学園と関係がなくなっていき、また自己が学園の実権を握っていくに従い、次第に自分ひとりを「学園創設者」として作為的に格上げしていった。原告らが亡憲一の社会的評価の存在の根拠として挙げている各文書の記述は、亡憲一又は原告綱彦による「学園創設者」僭称の手段であって、外交儀礼的称揚の辞にすぎない。また、亡憲一ひとりが「学園創設者」と記載されている資料の源は、全て亡憲一の発言及び記述にある。また、各文書は、当時の最高権力者であった亡憲一の監視下にあって、同人の叙述に拘束されつつ記述されたものであって、全て信用し難いものである。
学園史検討委員会が、学園史見直しに当たり、亡憲一の著作や「五〇年史」を資料としなかったのは、それらがいずれも客観的資料に基づくものとはいえず、「原資料」ともいえないからに過ぎない。「五〇年史」及び「六〇年史」は、原告綱彦の筆になるものであり、学園創設時の諸資料と適合せず虚構に過ぎない。同委員会は、原告綱彦に資料提出を要求し、委員会への出席を求めてその意見を聴取し、同人が提出した亡憲一の著作を含む多数の資料をも検討したが、客観的資料として価値のあるものや未知のものはなかった。
以上によれば、請求原因3の各行為の前提となったところの、亡憲一ひとりが「学園創設者」ではないとの事実は真実である。
また、被告法人は、学園史検討委員会が前記のような精査検討を経た上で出した結論である右事実が真実であると信じて、請求原因3の各行為を行ったものである。したがって、仮に、右事実が真実に反していたとしても、被告らにはこれを真実であると誤信するにつき相当な理由がある。
(二) 正当業務行為
本件学園史は、昭和五八年九月一六日の理事会の全員一致(原告綱彦を含む。)の決定に基づき、被告法人が発行したものである。
本件学園史に掲載されている座談会「学園史検討委員会の中間答申を読んで」は、被告法人の役員、教職員、校友の中で学園の歴史に詳しいものが集まり、学園史検討委員会の答申を読んだ感想、所見又は自らの回想を述べ、これを被告法人において編集整理したものである。右掲載の目的は、理事会が承認した学園史検討委員会中間答申の内容と今回の学園史見直しの経緯を学園関係者に平易に理解せしめることにあった。
本件句碑の寄贈を受けたのは被告法人であり、その所有権に基づき設置場所を変更することは自由である。まして、本件句碑の現在の設置場所及び形態は相当性を有する。本件句碑裏面に刻まれた文字のうち「学園創設者」の部分を削除したのは、亡憲一ひとりが「学園創設者」ではないとの理事会決定に基づき被告法人が行った正当業務行為である。
被告法人は、昭和五九年三月、学園史検討委員会の建議に基づき、被告法人大宮校地構内の中庭を整備造園して、東中庭の一画に、本件顕彰碑並びに本庄及び片岡の各胸像を建立し(除幕式は三月一八日)、本件胸像及び大井清一(関西工業専修学校第二代校長)の胸像を同じ場所に移設した。
これら胸像の所有権は被告法人にあるから、設置場所及び形態は被告法人において自由に決しうるところである。また、右建立又は移設の際、本件句碑が右顕彰碑等の設置場所の陰になってしまうことから、これを移設することとし、同時に別の句碑一基もその隣に移設したものである。
したがって、被告らの右各行為は、いずれも正当業務行為として違法性を阻却されるものである。
(三) 原告綱彦の同意
原告綱彦は、請求原因3の各行為の源となった四次にわたる学園史検討委員会中間答申、本件学園史の作成配布、本件句碑及び本件胸像の移動について、被告法人理事会において異議なく承認していた。特に右委員会第一次中間答申については、昭和五八年四月二六日、被告青井との間で、三九項目にわたる質疑応答を行い、その後に行われた右答申承認の採決において賛成していた。また、原告綱彦は、理事の一員として右承認を報告する立場で、被告法人評議員会に出席していた。さらに、原告綱彦は、本件顕彰碑の建立についても、それが報告了承された昭和五九年三月一二日開催の被告法人評議員会に被告法人理事として出席していたが、異論を述べなかった。以上のとおり、少なくとも本件学園史の作成配布、本件句碑及び本件胸像の移動並びに本件顕彰碑の建立については、原告綱彦の事前の同意があったものであり、違法性は認められない。
三 原告らの反論
1 被告らの本案前の主張に対する反論
(一) 被告らの本案前の主張(一)について
本件請求の保護法益は、亡憲一が被告法人の「学園創設者」であるとの社会的評価である。そして、右評価は、請求原因3の各行為がなされた昭和五七年ころには既に確立されて久しいものであった(仮に右評価が虚名であったとしても、名誉毀損の保護法益たりうる。)。したがって、本件における違法性判断は、被告らの各行為が亡憲一の評価を引き下げるものであったかどうかのみを吟味すればよく、「学園創設者」が誰であるかを確定しなければ右各行為の違法性の判断が下せないものではない。
仮に「学園創設者」が誰であるかの判断が不可欠であるとしても、右は司法判断に十分適する問題である。学園創設者については、私立学校界においても、一般社会においても、しばしば用語として用いられ、あくまで当該私立学校が一定の人物を「学園創設者」とみなしているものであり、それがはたして真実なりや否やということは詮索すべきことではない。更に、本件は、名誉という人格権に基づく重要な権利の侵害が問題となっており、市民法秩序の確立すなわち裁判による紛争解決の必要性が極めて強く要請される事案である。
いずれにしても、本件訴えについては、法律上の争訟といえるものである。
(二) 被告らの本案前の主張(二)について
本件は、名誉という人格権に基づく重要な権利の侵害が問題となっている事案であり、市民法秩序の確立すなわち裁判による紛争解決の必要性が極めて強く要請される事案である。
(三) 被告らの本案前の主張(三)について
被告らは、亡憲一の名誉(社会的評価)を広く社会的に毀損し、これにより原告らの亡憲一に対する敬愛追慕の情等の人格的法益をはじめとする名誉をも著しく毀損した。そこで、原告らは、本件において、亡憲一の名誉を回復するとともに、原告らの名誉を回復することを求めたものである。本件訴訟は、まさに複合的性格を有しているのであって、死者である亡憲一には被告法人自らがこれまで公式的に認めてきた学園創設者であるとの社会的評価が確固として存在しており、この亡憲一の名誉と原告らの名誉との間には、敬愛追慕の情という単なる主観的感情を超えた不可分一体の結び付きが存在するのである。マスコミ等によって個人の名誉等が絶えざる危機にさらされている現代社会において、また、本件のような特殊事情の下においては、死者の人格権そのものに依拠して亡憲一の社会的評価の回復がなされるべきである。
2 抗弁に対する反論
(一) 抗弁(一)、(二)について
請求原因3の各行為は、亡憲一を学園創設者の地位から貶め、かつ、その孫である原告綱彦を学園から追放しようとした、被告藤田ら一派の自己保身的動機に発したものであり、その目的自体正当ではない。また、被告らの学園史見直しは、その調査検討が極めて杜撰であり、さらに、検討委員会は、構成が不公正であるうえ、審議期間もわずか一年一か月に過ぎず、最終答申もなされておらず、参考資料も偏頗なものであった。被告らは、公正妥当な第三者機関による慎重な手続と運用によらずして、極めて短時日のうちに、六〇年間定着してきた学園の歴史を改ざんしたのであり、著しく独断的で軽率である。
被告らは、故意又は重過失により、六〇年余の学園史にあまた存在する諸事実から、自らに有利な特定の事実のみを一方的恣意的に取捨選択して、歴史を強引に歪曲し、虚構の事実を作為して世人をほしいままに誤導した。本件学園史及び本件図説が科学的実証的裏付けを欠くことははなはだしく、幾多の箇所において歴史的事実を誤導し、虚実をすり替えた。
また、右毀損行為の態様は、その程度の大きさと範囲の広範さにおいて、一般の社会的受忍限度をはるかに超えるものであった。
(二) 抗弁(三)について
原告綱彦が出席し、学園史検討委員会の第一次及び第三次中間答申が審議された昭和五八年四月二六日及び同年九月一六日開催の被告法人理事会において、右各中間答申が全会一致で承認されたことは認める。しかし、原告綱彦は、右各中間答申は、それに使用された資料以外の資料による再検討を留保したものであり、今後もそれをたたき台として史実が検討されていくものと考えて、右承認をしたものであった。ところが、右理事会の議事録においては、あたかも右中間答申が最終決定されたように記載されていたため、原告綱彦は議事録への押印を拒絶し、右中間答申を承諾していないことを明かにした。
また、前記同年九月一六日開催の理事会において、本件学園史の配布が全員一致で承認されたことは認めるが、右理事会についても、原告綱彦は、議事録への押印を拒否し、右承認をしていないことを明かにした。
更に、同年一二月二〇日開催の理事会において、本件句碑及び本件胸像の移動に関する報告がされたことは認めるが、右報告は、「その他」とされた報告事項の中で、被告藤田が独断で被告法人大宮校地の中庭整備についての報告を行った中で触れられたに過ぎず、原告綱彦は何らその意思決定に参加しなかったし、右理事会の議事録への押印も拒否した。
本件顕彰碑の建立に関する評議員会については、理事であるに過ぎなかった被告綱彦は評議員会における議決権を有しないのであり、右評議会の意思決定に何ら関与していないから、本件顕彰碑の建立を承諾したことにはならない。
第三 証拠
本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、法令の適用により終局的に解決することができるものに限られ、したがって、具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であっても、法令の適用により解決するに適しないものは、裁判所の審判の対象となり得ないというべきである。
二 本件は、被告藤田、同青井及び同福田が理事を務める被告法人が学園史見直しの名の下に学園史検討委員会を設置するなどして検討した結果結論づけたところの、亡憲一ひとりが被告法人の「学園創設者」ではないとの事実を基礎として、請求原因3記載の各行為を行ったことにより、原告らの祖父である亡憲一が被告法人の「学園創設者」であるとの社会的評価又は原告ら自身の名誉が毀損されたとして、原告らが被告らに対し民法七二三条に基づく原状回復を求めた事案であって、それ自体としては当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否についての紛争に当たるということができる。
しかるところ、本件において、原告ら主張の請求原因3記載の各行為が、亡憲一又は原告らの名誉を違法に毀損するものであったか否かについて判断するためには、亡憲一が被告法人の「学園創設者」であるとの社会的評価が右各行為により違法に低下させられたか否か、また、仮に右社会的評価の低下があった場合、被告らが請求原因4の各行為の基礎としたところの、亡憲一が被告法人の唯一の(又は主要な)「学園創設者」でないとの事実が真実であるか、あるいは被告らにおいて右事実が真実であると信じるにつき相当の理由があったか否か、がその前提となる。すなわち、亡憲一の社会的評価が違法に低下せしめられたとの事実の存否及び被告らによる亡憲一の評価の真実性又は相当性が本件紛争の本質的争点をなすとともに、右事実の存否及び真実性又は相当性についての判断が本件訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものであるところ、右判断をするについては、被告法人の「学園創設者」が誰であったかについての判断が不可欠である。
この点、原告らは、亡憲一が被告法人の「学園創設者」であるとの社会的評価は確立しているので、仮に、右評価が真実に反するとしても、右社会的評価はそれ自体として保護に価するものであり、本件訴訟における違法性の判断は、被告らの各行為が亡憲一が被告法人の「学園創設者」であるとの社会的評価を低下させるものであったかどうかのみを吟味すれば足りると主張するが、被告らの学園史見直しを図る行為が常に直ちに違法となる理由はないので、右違法性を判断するに当たっては、被告法人の「学園創設者」が誰であるかを確定した上、その行為の内容、態様が社会的に是認しえないか否かの判断をすることを要する(なお、これは、被告らによる被告法人の学園見直し行為が被告法人の正当業務行為として違法性を阻却されるか否かの問題と連なる事柄である。)というべきであるので、本件訴訟における違法性の判断は、被告らの各行為が亡憲一が被告法人の「学園創設者」であるとの社会的評価を低下させるものであったか否かのみを吟味すれば足りるものでないことは明らかである。この点はひとまず措き、仮に、原告らの主張のとおりであるとしても、本件において、違法性阻却事由としての真実性ないし正当業務行為の問題並びに故意ないし過失の問題としての相当性の問題も、本件紛争の本質的争点をなしているというべきであるから、原告らの右主張のように、本件の争点を単純に被告らの各行為が亡憲一が本件法人の「学園創設者」であるとの社会的評価を引き下げるものであったか否かにのみ集約するのは相当ではなく、原告らの前記主張は理由がない。
しかるに、被告法人の「学園創設者」が誰であったかについての判断は、「学園創設者」とはいかなるものか、さらに、被告法人において「学園創設者」として評価すべきはどのような者かという議論と深くかかわり、右議論に立ち入ることなくして判断することができない性質のものである。
しかして、「学園創設者」なるものは、もとより、それ自体法律上の地位や法的権利関係の根拠たりうる地位を意味するものでもない上、その定義付けについてさえも一般社会通念上何らかの合意が形成されているとは到底いえない(「創設者」なる概念が、被告法人の設立認可申請者たる「設立者」の概念と異なることは本件の両当事者間に争いがないが、これとても一般社会通念上そのように断定してよいものであるか疑問がある。)。さらに、どのような者を「学園創設者」として評価すべきかという点についても、一般社会通念上何らかの基準が存在しているわけでもなく、結局は、当該学校(又は学校法人)自体がどのような者を「学園創設者」として遇するか、あるいは遇しないか、という評価判断に係っているものといわざるをえない。これを裁判所の側から見たとき、「学園創設者」なる概念は、全く事実上のものであって、この概念の内容を確定すべき法的基準が存しないので、裁判所において、いかなる者を被告法人の「学園創設者」として評価すべきかにつき、その法的帰結を導くことは不可能であるといわざるをえない。
すなわち、「学園創設者」とは何か、どのような者を「学園創設者」として評価すべきかという問題は、右確定の内容及びそれに至る手続を含め、その一切が当該学校(又は学校法人)のその内部における自主自律的な判断に委ねられるべきものであって、一般的な経済的又は市民社会的事象とは全く異質の問題といわざるをえず、右の点につき、裁判所は、審理判断をなし得ないというべきである。
したがって、本件訴訟の本質的争点である、亡憲一の社会的評価の低下の存否、被告らによる「学園創設者」の評価の真実性又は相当性については、裁判所の審理判断が許されない性質の事柄であるというべきである。
よって、本件訴えは、いずれも、その実質において法令の適用により終局的に解決することができないものといわざるを得ず、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に該当しないというべきである。
三 なお、原告らの主張中には、本件学園史等において、原告ら自身を含む田上家が三代にわたって学園を私物化し、学園の発展に計り知れない損失をもたらした云々と決めつけられ、その結果、原告ら自身の社会的評価を低下させられた等の実につき言及する部分が存する。これは、原告らの、被告らが亡憲一が被告法人の「学園創設者」であることを否定する行為に出たことを理由とする名誉棄損の主張とは性質上別個のものとして成り立ち得る(すなわち、原告らの、被告らが亡憲一が被告法人の「学園創設者」であることを否定したことを理由とする名誉棄損に基づく訴えが前記のとおり不適法であるとしても、右主張に係る事実を基に構成した訴えは直ちに不適法とはならず、右主張事実は、要件の具備如何によっては不法行為を構成する余地がないではない。)ので、切り離してその成否が問われる余地がある。しかしながら、原告らが、本件請求において、被告らが亡憲一の名誉ないし社会的評価の棄損する各種の行為に出たことに対する名誉回復の措置として、別紙の内容の謝罪広告、本件学園史等の回収廃棄、移設等に係る亡憲一の句碑等の現状回復等を求めていることに鑑みるとき、原告らは、前記の事実を名誉棄損行為として独立して、不法行為の成立を主張するものではないと認めることができる。したがって、本件において、右の点につき、敢えて判断に及ぶ必要はないものと考える。
四 以上のとおりであるから、その余の点を判断するまでもなく、本件訴えはいずれも不適法として却下することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官中路義彦 裁判官横山泰造 裁判官瀨戸口壯夫は、差し支えにつき、署名押印することができない。裁判長裁判官中路義彦)
別紙謝罪広告<省略>
別紙図面<省略>